北海学園創成の功労者Founders

北海学園創成の功労者

北海英語学校の創設者「大津 和多理」(おおつ わたり、1857-1917)

北海英語学校の創設者、大津和多理は安政4年(1857)仙台に生まれ、明治7年(1874)宮城英語学校に17才で入学、3年後退学し、警視庁の巡査募集に応じ、西南戦争に従軍。明治11年(1878)札幌農学校に入学、15年(1882)同校を3期生として卒業。卒業後、札幌県御用掛に採用、札幌師範学校教諭となるが、明治18年(1885)に依願退職、北海英語学校を設立し校長に就任。明治20年(1887)、病気により札幌を去る。その後は、大阪府立農学校教諭となるが、精神上の病で退職、郷里で静養していたが、大正6年(1917)に逝去、享年61才。

北海学園の父 「浅羽 靖」(あさば しずか、1854-1914)

北海学園の父、浅羽靖は安政元年(1854)大阪に生まれ、大蔵省入省後、北海道庁や札幌区長(現在の市長)を経て、明治20年(1887)北海英語学校校長に就任。以来27年間にわたり私学経営と教育に尽力した。自ら農場や製塩業などを営むほか、明治37年(1904)からは衆議院議員として国政にも参与し、拓殖銀行の創設、交通機関の整備等、北海道の産業発展に多大な功績を残した。北海道の開発に必要な人材養成の重要性を感じた浅羽は、質実剛健の気魄を養う訓育を施し、その精神は今日の北海学園に受け継がれている。

北海中学校長・札幌商業学校創設者「戸津 高知」(とつ たかとも、1872-1959)

戸津高知は、明治5年(1872)に仙台に生まれた。宮城尋常中学校に進んだが、同校が廃止となり、明治22年18才のときに北海道に渡り、北海英語学校から札幌農学校予科を経て札幌農学校に進学・卒業。卒業後、札幌尋常中学校教諭となったが、北海英語学校でも教えた。明治34年(1901)に英語学校に中学部が設けられ、教頭に迎えられた。大正3年(1914)、浅羽靖校長の跡を継ぎ、それから33年間にわたり北海中学校の校長を務めた。北海道における商業人の養成が求められ、大正9年(1920)に札幌商業学校(戦中は札幌豊陵工業学校)を設立し初代校長を兼務した。浅羽が厳格な国家主義と儒教的精神にもとづく教育を実施したのに対して、戸津は自由主義的な寛容な精神を基盤に教育を行い自学・自治の校風「自由な学園」を育てた。戸津は生徒から慈父と親しまれ、自由と慈愛に満ちた信念の教育者であった。

北海学園大学の初代学長「上原 轍三郎」(うえはら てつさぶろう、1883-1972)

本学の初代学長、上原轍三郎は明治16年(1883)広島県山県郡に生まれ、広島県日彰館中学校を卒業後、中学英語教科書で新渡戸稲造の「武士道」に影響され、札幌農学校予修科に入学。札幌農学校が東北帝国大学農科大学となり、同大予科に編入、予科を経て明治45年(1912)に同大学を卒業し助手となる。卒業論文「北海道屯田兵制度」は、その後に北海道庁から刊行され、北海道の開拓政策の聖典となる。その後は、北海道帝国大学助教授・教授となり植民学講座を担当。今までの植民学が行政・政治の面から扱われたのに対して、人間を基点として土地と人口の調和を図る「植民学」を提唱・確立。昭和21年(1946)に北海道帝国大学を退職、名誉教授となる。昭和25年(1950)に北海短期大学学長、昭和27年に北海学園大学学長、に就任。この間、北海道総合開発委員会専門委員長として、北海道開拓の理論的指導者として大きく貢献した。
北海学園大学同窓会の名称「豊平会(ほうへいかい)」は上原が命名しており、これには北海学園発祥の地名"豊平(とよひら)"を(ほうへい)とする呼び名とし、この地で学び巣立つ卒業生が生涯忘れることがないようにという意味が込められている。